北広島市の歴史
北広島市の偉人
現在の北広島市は、先人達がこの地をつくろうと奮闘した長い歴史のもと誕生しました。中山久蔵
中山久蔵が島松沢に入植したのは明治4年(1871年)。当時、道南より北では米づくりは不可能と考えられていましたが、久蔵は寒さに強い「赤毛種」の種もみを取り寄せ、水田の試作に着手しました。
しかし、川から引き入れた水の温度が低く、作物はまったく育ちません。
そこで久蔵は、川から引いた水をためて温める暖水路をつくり、風呂の湯を苗代に入れるなどの努力を重ね、明治6年(1873年)、ついに米の収穫に成功したのです。
久蔵は改良を重ねた種もみを開拓移民に無償で分け与え、その種もみは「中山の種」と呼ばれて、石狩、空知、上川にも広がり、多くの農家の支えとなりました。
寒地稲作の父、北海道稲作の父と称される中山久蔵。
改革に挑み続ける精神は、いまも北広島の地に息づいています。
W.S.クラーク
W.S.クラーク博士が北海道に訪れたのは明治9年(1876年)。当時の北海道開拓使長官・黒田清隆に招かれ来日しました。
クラーク博士が呼ばれた理由は、北海道開拓に際して農業技術を向上させることであり、現在の北海道大学の前身である札幌農学校の初代教頭として就任。
その教えは自由・独立・人間尊重を基盤として、校則として「Be Gentleman(紳士たれ)」の2語だけを掲げました。当時の学生たちは紳士として扱われることを知り、破目を外すことも自重するようになったといいます。
明治10(1877)年4月16日、クラーク博士が日本を離れる際に、見送りにきた学生たちに残した言葉「BOYS BE AMBITIOUS—青年よ大志を懐け」。その舞台となった札幌郡月寒村島松—いまの北広島には、彼の精神が息づいています。情熱・使命感・高い専門性—その教えは、北広島が目指す「希望」のまちづくりに欠かせないスピリットなのです。
和田郁次郎
明治17年(1884年)、和田郁次郎は野幌原野を開拓の地に選び入植。広島県人25戸103人とともに移り住みました。
この年は厳しい寒さで未曾有の大凶作となり、冬を越すのも困難を極めた郁次郎たち。
翌年には、みんなで励まし合いながら田畑を耕し、見事な豊作に。郁次郎は農民たちに平等に土地を与えたため、移住者は次第に増え、明治26年(1893年)には380戸1,200人余りの大きな集落になり、米の生産量は北海道一を記録しました。
これらの功績を讃え、当時の北海道庁長官は「和田村」と名付けるよう提案しましたが、郁次郎は「皆で開拓したので」と固辞。仲間たちの故郷にちなみ「広島村」と名付けたのです。
その後も、郁次郎は郵便局長を務めながら、学校や寺院への援助を行うなど、村の発展に尽力。たゆまぬ努力でまちと人をリードした精神は、北広島が掲げる「交流」のまちづくりにつながっています。