寒地稲作発祥の地
掲載日:2019年3月7日
北海道と稲作
明治時代初期、冷涼な気候の北海道では、函館や松前といった道南地方を除き稲作は難しいと考えられていました。そのため、開拓使は欧米型の大規模農業を推し進めますが、北海道に移住した入植者たちの米食習慣は変化しがたく、本州からの移入米が増大する一方、米価も上昇を続けていました。そうした状況の中、北海道農業開拓の中心地域であった道央の石狩地方で、初めて稲作の安定した栽培に成功した人物が、中山久蔵です。
中山久蔵(1828-1919)
中山久蔵の紹介
文政11年(1828)河内国(現在の大阪府)に生まれ、明治4年(1871)に44歳で島松沢に入植した久蔵は、道南の大野村(現在の北斗市)から「赤毛」という寒さに強い品種の種もみを取り寄せ、稲作の試作を始めます。そしてさまざまな苦労と努力を重ねた結果、明治6年に反あたり換算で345キログラムの収穫に成功しました。
これにより、道南以北においても稲作の可能性が示され、久蔵の成功は石狩平野における水稲の基礎を築いたのみならず、その後の開拓使の農業指導方針にまで影響を与えたといわれています。
その成功を記念し、現在久蔵の旧宅であった旧島松駅逓所には、久蔵の水田を復元した見本田や「寒地稲作この地に始まる」の碑が建てられ、その功績を現代に伝えています。
「寒地稲作この地に始まる」の碑
久蔵が栽培に成功した赤毛。
現在も「北広島市水稲赤毛種保存会」の皆さんにより毎年栽培されています。動画
中山久蔵とお米についてより詳しく知りたい方は、こちらの動画をご覧ください。「北海道米と中山久蔵」(7分16秒)
【制作:北広島市(平成30年度「未来へつなぐ米の歴史発信事業」)】