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11.17 2学期末テスト

 2学期の期末テストに全員真剣に取り組んでいます。
 先生方はこの後、採点をし、早ければ明日にも返ってくる教科があるかもしれません。






ちょっといい話  

  牢獄の中でも学び続けた人

 今日はテストでしたが、できれば勉強したくないという人がほとんどでしょう。

 一方で、学校へ行くことも就職することも絶望的だったにもかかわらず、それでもなお熱心に勉強し、その大切さを教え続けた人がいました。その人の名を、吉田松陰といいます。

 時代は幕末。吉田松陰は、迫りくる外国の情勢や武力を知ろうと、伊豆の下田から、当時、わが国に来校したペリーの黒船に乗ってアメリカへ渡ろうと計画しました。

 しかし、その計画は失敗し、牢獄に入れられてしまいます。当時の国のおきてでは、自由に国外に出ることは禁じられていたからです。

 松陰が入った牢獄は、10数年、ひどい場合は40年以上もつながれている罪人たちがいました。最年長者は76歳、若くても40歳に近い人たちです。みな社会復帰は絶望という者たちばかりで、牢内は、なんともいえない暗さが漂っていました。

 そんななかでも、松陰は猛烈な読書を行いながら(獄中にいた1年2ヵ月の間に618冊を読破)、一方で自分の食費を削って、そのお金で死んだ弟子(金子重之輔)のお墓にお供え物を贈ったそうです。

 牢獄に入れられても、なお勉強を続け、亡くなった人のために自分の食費を切り詰める。この松陰の姿に、他の囚人たちは驚きの念を禁じ得なかったでしょう。

 そして、その驚きはやがて松陰に対する尊敬の気持ちへと変わっていったのでしょう。いつ牢獄から出られるかわからない、人生に絶望していた囚人たちが、松陰の「勉強しましょう」という呼びかけに応じて、なんと松陰を囲んで勉強会を始めるようになったのです。

 松陰は『孟子』という中国の古典を、当時のさまざまな問題や出来事と関連づけて講義を始めました。これによって牢獄の雰囲気は一変します。囚人たちは生きる力をとりもどしたのです。囚人の中には松陰を「尊師」と呼ぶ者さえいました。

 この変化に牢獄の番人たちは、驚きました。そして、ついには彼らまでもが、その勉強会に参加し、松陰に弟子入りをするようになったのです。

 牢獄が、わずか半年で、お互いに学び合う自己向上の場へと変身しました。囚人たちは松陰を慕い、ことごとく改心したといいます。このとき松陰は25歳。囚人の中では最年少でした。

 『宝島』で有名なイギリスの作家スティーブンソンは、松陰のことを、「人類史上もっとも高潔な人物である」と評しています。どんなに苦しい境遇にあろうとも、人や国を憂えることを忘れなかった気高い気持ちを持った人だからこそ、これだけの大きな感化を人に与えることができたのでしょう。

 松陰の『孟子』の講義はやがて『講孟余話』という書物にまとめられました。『新訳孟子』を書いた穂積重遠は、松陰の『講孟余話』を「古今和漢を通じて第一の孟子論」と絶賛しています。

 「牢獄に入れられているのに、勉強なんかしても無駄じゃないか」と言う人がいるかもしれません。しかし、松陰がめざした勉強は、受験や就職、出世に役立つ勉強ではありません。

 松陰は、「人は自分の中に尊いものがあることを認める必要がある」と言っていますが、彼がめざしたのは、自己の中の「尊いもの」を認め、理想的な人間になるための勉強だったのです。

 松陰はその後、塾を開いて、身分にかわりなく、勉強に意欲のある者に学問を教えました。松陰がこの塾で学問を教えたのは、わずか1年ほどでした。

 月謝は無料、村の人々を対象にした小さな塾で、塾生の半数は貧しく、身分の低い家の子たちでした。彼らは、忙しい生活の中からひまを見つけては塾に通いました。
松陰は、塾生たちを、まるで天下の英雄豪傑のように扱い、高い志(理想)を持ち、学んだことをを行動に移すように教えました。

 やがて、その塾生の中から奇兵隊(奇兵とは正規軍ではないという意味)を創設した高杉晋作、初代総理大臣の伊藤博文、日本陸軍の創設者山県有朋、内務大臣を務めた品川弥二郎、陸軍中将になった山田顕善など、国の中心になって働く人物を生み出しました。

 高杉を除けば、みな足軽程度の下級藩士の子弟が門人でした。これだけの短期間で、これだけの人材が育ったというのは、史上空前のことだといわれています。
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