寒地稲作のはじまりを見てみよう!
掲載日:2017年12月7日
漫画「北海道米ものがたり~寒地稲作は北広島市からはじまった」
北広島の稲作をテーマにした漫画「北海道米ものがたり~寒地稲作は北広島市からはじまった」です。エゾリスの家族が、食卓を囲んで白いご飯を食べようとすると突然、赤毛米蔵が現れ、中山久蔵の取り組みを分かりやすく解説していく物語です。ご覧ください!!
中山久蔵の取り組み
北海道では、稲作は普及しない。開拓使顧問のケプロンや、札幌農学校教頭のW・S・クラークは考えました。
その考えが、北広島の1枚の水田で覆りました。
成し遂げたのは、中山久蔵です。
中山久蔵の取り組み
寒地稲作に挑む
北海道移住を決意した中山久蔵はまず苫小牧に入植しました。その後、肥沃な土地を求めて島松にたどり着きました。
最初は、ヒエなどの雑穀を栽培。収穫するまでに持参した食料が尽きてしまい、野草や鹿・ウサギの肉を食べて飢えをしのいだといわれています。
雑穀の収穫に成功し、自活の手段を得た久蔵は、次に稲作に挑みました。
北海道は寒冷な気候のため、稲作が普及するのは不可能とされていました。
当時、稲作が行われていたのは、気候が温暖な道南地方のわずかな地域です。
明治5年(1872年)、亀田郡大野村(現在の北斗市)から寒さに強い赤毛種の種もみを入手し、翌年試作。やはり、思うように発芽しません。
水温の低さが原因と考えた久蔵は、暖水路を作りました。
川から引いた水を直接水田に入れるのではなく、いったんため、日光に当てて温めてから水田に入れたのです。
また、昼夜を問わず風呂の湯を水田運び入れ、水温を保ったともいわれています。
苦労は報われ、明治6年(1873年)の秋には反当り345kgの収穫がありました。久蔵が46歳のときです。
寒地稲作を広める
その後、中山久蔵は毎年水田を増やしていきました。よく育った稲を選んで翌年の種もみにする。次第に寒さに強い品種を作り出していったのです。明治12年(1879年)からは、道内各地の開拓農民に赤毛種の種もみを無償で分け与え、全道に稲作が広がっていきました。
明治19年(1886年)には、北海道庁がスタートしますが、当初は米食禁止令が出され、稲作を試みた農民が投獄されることさえありましたが、明治20年代半ば以降、北海道庁も久蔵の実績を認め、稲作奨励へと政策を転換しました。
中山久蔵の年譜
年(西暦) | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
文政11年(1828) | 1 | 河内国石川郡春日村(大阪府南河内郡太子町)に生まれる。 |
嘉永6年(1853) | 26 | 仙台藩士片倉英馬につかえる。 |
安政元年(1854) | 27 | 仙台藩の命で、蝦夷地白老に来る。その後、仙台・白老間を往来するようになる。 |
明治元年(1868) | 41 | 仙台藩士のもとを辞す。 |
明治2年(1869) | 42 | 北海道移住を決意。白老に来る。 |
明治3年(1870) | 43 | 苫小牧に入植。 |
明治4年(1871) | 44 | 千歳郡島松(恵庭市)に入植。 |
明治6年(1873) | 46 | 札幌郡月寒村字島松(北広島市)に移る。稲作に成功。 |
明治11年(1878) | 51 | 蓮根(れんこん)栽培に成功。 |
明治12年(1879) | 52 | 開拓農民に種もみ100俵を無償で提供することを提案し、配布を開始。 |
明治13年(1880) | 53 | 久蔵宅が島松駅逓所継替所となる。 |
明治14年(1881) | 54 | 久蔵宅が明治天皇の行在所(あんざいしょ)となる。 |
明治15年(1882) | 55 | 旅費に困っていた阿波国(徳島県)からの移民42人に小屋を無償で貸し、仕事を紹介する。 |
明治17年(1884) | 57 | 島松駅逓所取締となる。 |
明治22年(1889) | 62 | 北海道庁前の池へ蓮(はす)を植え付ける。 |
明治36年(1903) | 76 | 緑綬褒章受章。 |
大正8年(1919) | 92 | 死去。 |
赤毛種について
赤毛種は、米食味ランキング特Aの「ゆめぴりか」、「ななつぼし」の先祖です。赤毛種は、稲穂に長い毛があるのが特徴です。
刈り入れ時期になると、その名のとおり毛は赤く色づきます。
一方、現在栽培されている稲の多くは、毛がありません。
長い毛は収穫の妨げになるため、品種改良で姿を消したのです。
中山久蔵の功績を後世に残すべく、北広島市水稲赤毛種保存会によって赤毛種の保存に取り組まれています。
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お問い合わせ先
経済部 農政課内線4602