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中山久蔵が育てた稲の起源を訪ねて(大野町)

北海道水田発祥の地碑の位置図

中山久蔵が育てた稲の起源を訪ねて
大野町に残る「北海道水田発祥の地碑」

北海道の南部、亀田郡大野町文月。道道上磯峠下線から少し入ったところに「北海道水田発祥の地碑」がある。
広報おおの平成11年(1999年)11月号によると、同町の稲作については三つの記録がある。一つは寛文(かんぶん)年間(1661年~1672年)、一つは貞享(じょうきょう)2年(1685年)であるが、いずれも面積や収穫の有無は定かでない。そしてもう一つが、この碑に刻まれている元禄(げんろく)5年(1692年)で、「作右衛門なる者四百五十坪を開田し産米十俵を収穫した」とある。
大野町史(昭和45年(1970年))によると、その後幾多の失敗を経て、明治3年(1870年)には亀田郡の田が288町余り(およそ286ヘクタール)となり、道内のほとんどの米を産するに至るが、北広島に関しては次のように記載されている。
「明治6年(1873年)島松の中山久蔵が、大野へ来て相当日数滞在し、研究の結果持ち帰ったのは赤毛と白ヒゲで、白ヒゲは成功しなかったが、苦心の結果仕上げられた赤毛は、のちには石狩・空知・上川へとひろめられている。」
現在、碑の周りに田は少なくなり、当時の様子をうかがい知ることはできない。しかし、この地の米が北広島で育ち、さらに全道へと広がったことを思うとき、米に対する思いの強さを感じずにはいられない。

*今回の記事に当たっては、大野町教育委員会教育課 八木橋直弘さんに、資料の提供ほか多大な協力をいただきました。

「写真:大野町文月にある「北海道水田発祥の地碑」」
写真:大野町文月にある「北海道水田発祥の地碑」

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